高松市街に向かう国道11号線沿い「高松ミライエ」(高松市松島町1)西側の交差点。通ったことのある方は分かるだろうが、この部分だけ奇妙に盛り上がっていて、車を運転してここに差し掛かると小さな山でも上り下りしている感覚になる。筆者の知人は「車酔いしやすいのでこの道を通ると少し気分が悪くなる」と苦笑する。
毎年道路を補修し、新しい道路も次々に開通する中で、なぜここの道を平らにしないのかと考える方もいるかもしれない。
実はここの地下には今も「仙場川」という川が流れているのだ。交差点から高松商業高校(松島町1)西側を通り、多賀神社(多賀町2)に向かって伸びる道沿いには白いブロックに覆われた歩道が見られる。
学生が多く通る道沿いとはいえ、車一台分以上はあろうかという不自然に広い歩道だが、これは川に蓋をしている部分、つまり暗渠(あんきょ)。国道11号から逆側にもこの白いブロックによる歩道は伸びており、やがては琴電の今橋駅隣りから、覆うものはブロックから公園へと変わる。この川の名から取って「仙場公園」という。ここから北に向かって一直線、新橋を越えて城東町と朝日町の間を抜け、海へと辿り着く。
このように、地下には現在でも人知れず川が流れているのだ。今橋や新橋などと川があることを示唆する地名は残っているものの、高松市が現代都市に生まれ変わっていく過程でその水面は見られなくなった。
では、この川はどこから流れているものなのか?同校付近、多賀神社から川をさかのぼろうにも、川面はどこにも見えない。
実はこの川は栗林公園(栗林町1)内の湧き水が流れ出てきているものなのである。
明治時代の高松市の地図「讃岐高松市外細見新図」を見ると、同園内から出た水がいったん公園の北側の水槽に溜まった後、高松市街地を取り囲むように二手に分かれて流れているのが分かる。東に向かう水脈は、先述のように仙場川として多賀神社横を北上して松島から海まで流れこんでいる。一方、西に流れる水脈は石清尾八幡宮(宮脇町1)の堀に注ぎ込んだ後に北進して海へ流れ込む「摺鉢谷(すりばちだに) 川」として、現在も紫雲中学校(紫雲町)隣から水道橋の下を流れる。
現在も同園内で湧き水が確認できる場所は南湖の「吹上亭」隣と「舟蔵跡」の2カ所。ここからの湧き水は園内のすべての湖を満たしているだけでなく、高松市内を流れる2つの川の流れになっている。
この湧き水は、江戸時代初期まで2股に分かれ高松市街地を流れていた香東川の水脈の名残である。吹上亭隣の湧き水は気軽に手を浸すことが可能なのだが、そのまま飲めてしまうのではないかと思えるほどに澄んでおり、真夏にはその冷たさが何とも心地良い。
この小さく吹き上がる湧き水がやがて、高松市街地を囲うように流れる川となるのだ。江戸時代から明治や昭和の初め頃までは生活用水や防火にも役立てられ、実際に江戸時代に大火事が何度か発生しているがこの川沿いで延焼が止まっている様子が資料で確認できる。
先日、制服姿の高松商業高校の学生たちがこの吹上の水に触れて楽しそうに騒いでいた。
「まさか自分たちの校舎の隣に水路があって、ここが水源だとは気付いていないだろう」と筆者の目には面白く映った。
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このコラムでは知るとちょっと奥深い高松の歴史について紹介していきます。
どんな「歴史小話」が飛び出すか、次回もお楽しみに!
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