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かもねのたかまつ歴史小話(3)高松に浮かぶ「船の体育館」香川県立体育館に見る高松の今昔

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かもねのたかまつ歴史小話(3)高松に浮かぶ「船の体育館」香川県立体育館に見る高松の今昔

 先日、1964(昭和39)年に建てられて以降、多くの市民に親しまれてきた旧県立体育館(高松市福岡町2)の解体の方針が固まった。

 建築家・丹下健三の設計で世界的建築とまでいわれる同体育館。香川県が未来に残すべき大切な文化財をまた一つ失うことになるのは残念なことである。この体育館は和船を模した独特なデザインをしていることから「船の体育館」と市民に呼ばれる。

 体育館の構造や今回の解体の方針に至るまでの経緯などは既に報じられているが、この建物がどうして和船のデザインとなったのか触れている記事は見当たらない。今回は郷土史の観点から、この建物が立つ場所を見て、設計者・丹下健三の意図に迫る。

旧香川県立体育館

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 現地に行くと、旧体育館の南を走り東西に伸びる小道は盛り上がっていることが見て取れる。道を東の県道157号線まで突き抜けた位置にある酒販店「ふくしま屋」(福岡町3)から改めて観察すると、さらにこの道の盛り上がり具合が分かる。

ふくしま屋から体育館側を見たところ

 


低いところから見ると「止まれ」の文字のあたりで地面が盛り上がっていることがよく分かる

 今度は旧体育館から西、先ほどとは逆方向に向かう。こちらは4車線道路をまたいで高松市営競輪競技場の南につながるのだが、こちらも盛り上がりが見られる。この道から競輪場の裏門へ入ることが可能なのだが、その裏門は坂を下りたところにある。


競輪場南門前 高低差がある

 このように、旧体育館の南を走り東西に伸びるこの小道だけが明らかに高く造られているのだ。


Google Mapより 赤線を引いたのが小高くなっている道

 なぜこのようなことになったのか。実は江戸時代、ここには「八丁堤(八丁土手とも)」という堤防があった。今から170年ほど昔の1854(嘉永7)年に発行された江戸期のガイド本「讃岐国名勝図会」にも、しっかりと描かれている。

屋島に向かって松が連なって生えているのが八丁堤(「讃岐国名勝図会」より)

 当時の人たちが高松城下から屋島の潟元(かたもと)方面に向かうにはこの堤を東へと歩いた後、沖松島へ南下して郷東川(詰田川)を越えるのが通常ルートだったらしい。堤には松の木が並ぶとともに四季折々の花が咲いたという。温かい季節には北に広がる海の景色と心地よい潮風が通行人の心を癒やしたことだろう。「沖松島」の地名は日本三景の宮城県松島に負けず劣らずの景色だとの意味合いから付けられたとの説もある。

 堤の南側、現在の福岡町はかつて広大な塩田だった。塩田地としての姿は昭和30年代ごろまで見られ、地元の年配者は「ここの揚げ浜式塩田を子どものころに見た」と言う。今ではすっかり住宅地になっているが、塩釜神社(福岡町4)などにその名残がある。江戸時代の初期から300年以上にわたり、この堤は高松の人々にとって、れっきとした生活風景の一部だったのだ。

体育館そばの説明書き

 このように、昭和30年代に干拓されるまで、この辺りには海が広がっていた。土からアスファルトへ形が変わったとはいえ、その堤を現代でも生活道路として使っているのは感慨深い。そしてその堤の北、つまり埋め立てによって海がなくなったその位置に再び和船を浮かべたのが丹下健三。丹下は前衛的なデザインとされる体育館の建造で、かつてここで見られていたであろう堤と和船のコラボという風景を再現した。そう思うと、「体育館のある街並み」という何の変哲もないこの眺めが、先ほどの名勝図会の「堤の傍に和船が浮いている風景」に見えてこないだろうか。

ホテルパールガーデンから見た旧県立体育館

 時に「実用性に欠ける」と賛否の声も上がる船型のデザインだが、筆者には芸術家としての丹下のエゴや自己満足ではなく、この土地の歴史を未来に語り継ぐ手段としての利用価値をも考慮して、この建物を設計したのではと思えてならない。

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 このコラムでは毎月、知るとちょっと奥深い高松の歴史について紹介していきます。

 どんな「歴史小話」が飛び出すか、次回もお楽しみに!

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