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かもねのたかまつ歴史小話(5)石清尾八幡宮と高松の海運今昔

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石清尾八幡宮と高松の海運今昔

 高松市の氏神として市民にはなじみ深い「石清尾八幡宮」(高松市宮脇町1)。創建は平安時代真っただ中の918年。1100年以上たった現在も「おはちまんさん」「いわせをさん」と呼ばれ、高松市の氏神として親しまれている。

石清尾八幡宮

 海から約2キロ離れている同神社だが、実はその昔、海運の重要な拠点として使われていた。わずかだが今でもその痕跡は同神社に確かに残っている。今回は高松の郷土史とともに、かつての同神社や高松の海運事情を見ていこう。

古代高松の港

 まず初めに高松の海岸線について話をしなければならない。江戸時代初期まで高松市街はほぼ水中にあった。高松市のハザードマップや資料を参考に当時の沿岸部を再現してみた。


 
この地図から、屋島から瓦町付近までの土地は海にあり、その海岸線は現代の志度栗林線辺りにあったことが分かる。大きな湾となっていて、その湾の入り口の東側が屋島、西側が野原郷となっていた。

 この野原郷は地図を見れば分かるように、長い年月のうちに香東川に運ばれてきた砂利がたまってできた中州だった。後に初代高松藩主の生駒親正により讃岐の中心地としてこの地が選ばれ、町造りを始めるにあたって高松という地名へと変えた。今でも玉藻城内で河原に見られるようなゴロゴロとした石が多数確認されるのは、ここが砂利の上であるためだ。

 この野原と呼ばれていた中州には古代からの港が発掘調査によって、いくつか確認されている。室町時代の「兵庫北関入船納帳(兵庫にあった幕府関所での船からの積み荷の徴税記録)」には屋島の麓にあった潟元港と野原港から頻繁に物資が都へと運ばれていたことが記録されている。

 野原の港は時代によって少しずつ場所を変えつつ、小規模ながら荷揚げ場として存続しており、その付近からは割れた陶器の破片が多く見つかっている。都から運ばれてきた陶器を荷揚げする際にチェックして、運送上で毀損(きそん)していたものを捨てた跡と考えられるという。

 打ち捨てられていたと思われるそれらの破片を復元してみると、それらの陶器は日用品として使われるレベルの物で、高い価値を持つ物ではないという。そもそもが野原港の役割は日用品レベルの陶磁器を都から運んでくるむためのではない。本来の目的は都へと徴納品を送るためのものだった。先述した「兵庫北関入船納帳」に記載されている積み荷は、まさにその徴納品の品目を指している。

陶磁器は都に徴納品を届けた船の帰路に空荷となるのを避けるために積まれたと考えられる。いわゆる本来の目的に付随して持ち込まれることになった産物的なものだった。しかし、その副産物=毀損(きそん)して捨てられたものが発掘されたことにより、港の本来の目的が判明していくところに歴史の面白さがある。

野原港は古代高松の中心地「坂田郷」と都との中継地

 では、都に送る徴納品とはどんな性質を持っていたものだったのか? 上に載せた中世、高松の地図のやや西側を拡大して話を進める。


 
 先にも説明した通り、この野原は現在の高松市街の中心地である。海と香東川に囲まれた中州となっていて江戸時代初期になって北端に高松城が築かれた。時代ごとに小規模な陸揚げ用の港があったことも先に説明したが、室町時代には今の扇町付近に港があった。ここは当時流れていた香東川の河口付近に位置する。

香東川は今の塩江町の山奥から高松平野を縦断して流れて来る。江戸時代の大がかりな改修工事によって今では浄願山の西部から郷東へと流れる一本の川となっているが、そもそもは中流で二股に分かれて、その一本が地図に見られるような流れとなっていた。この流れの傍らに峰山の東南部を形作っている室山がある。室山の室とは、そもそもが海港という意味だ。そしてこの辺りが坂田郷と呼ばれていた。現代で言う西春日、西ハゼ町付近だ。

この坂田郷は古代においては讃岐の要衝地だったといわれている。古代には坂田寺院や瓦を製造していた窯などもあったとされ、発掘調査でそれらの跡も確認されている。

 日本の歴史を細川一族の存在を無視して語ることはできないが、その細川氏繁栄は細川定禅がこの坂田で旗揚げをした時より始まったとも言える。さらには平安期以降、白河法皇の荘園地となるなど、天皇家の所領となっている。つまり、川を下って野原の港から都に送られていた徴納品は、ここから土地の所有者の皇族に収められる年貢などだったと考えられ、皇族にとっては大事な収入源だった。

 野原の港はこの坂田と皇族のいる都へスムーズにこれらを送るための役割を担っていたと考えられる。

現在の西ハゼ町

そばの鶴尾神社の説明文にもかつての繁栄ぶりが書かれる

 室町時代になって讃岐は管領細川頼之のお膝元となる。細川頼之は室町将軍三代目足利義満の教育係となり、私心を持たずして室町幕府の基礎を築いた名臣だった。京兆家といわれ、この一族が室町時代の中心となっている。応仁(おうにん)の乱などでも有名だがその家臣団は内衆と呼ばれ、讃岐の諸将で占められていた。いわば幕府で最も権勢を誇っていた細川氏が国主となったわけだが、この坂田郷は皇族の荘園地である以上は手を出せない。ただ、その管理を行うべく代官は任じることが通常であることから、ここに腹心の香西氏を代官として置いた。

 さらに野原郷にはやはり香西氏の配下となる岡田氏を置き、港の管理に当たらせた。岡田氏の構えた屋敷は現在の扇町に鎮座する若一王子神社付近にあったとされる。

若一王子神社

付近の扇町の様子


 このように坂田と野原を香西氏が押さえていた。徴納品の皇族への輸送ルートを腹心の香西氏の管理下に置いたということについてはさまざまな見方ができる。筆者のうがった見解ではあるが、幕府側重臣として朝廷との何らかの交渉があった場合、このルートの締め付けによるプレッシャーを与えることで優位に事が進められる事もあったのではないかと考える。

 それを裏付けるものとは言い切れないが、皇族から香西氏を坂田郷の代官から外すようにとの依頼が度々出ていることは記録にも残っている。

石清尾八幡宮の役割

 野原の港は西の香東川沿いにあり、小舟に載せられて下ってきた坂田郷からの荷を野原の港で大船に積み換えて都に向かった。都から帰ってきた大船には日用品に使う陶磁器が積まれていて、それを野原の港で小舟に積み換える。この野原の港と坂田郷をつなぐ水運ルートのど真ん中に石清尾八幡宮が鎮座している。

 丘陵にあるこの神社の境内からは眼下に住宅街や学校の校舎を見渡すことができるが、この時代には傍らを流れる香東川を見下ろす位置にあった。当然ながら坂田郷と野原の港を往来する舟もよく見えたことだろう。

同神社の堀から境内を見る 川を航行する舟からもこう見えたのかもしれない

 細川頼之は同神社をあつく崇敬し、社殿の改修を施して宝物を納めたという。筆者には純粋な信仰心だけであったとは思えない。

 発刊当時に香川県埋蔵文化財課だった松本和彦さんは「中世讃岐と瀬戸内世界」(岩田書院、2010年)で「石清尾八幡宮は水運の管理の役割を担っていたのではないか」と説いている。

 そこから次の推察が導き出される。
・石清尾八幡宮は平安時代には坂田郷で徴税された物資を都に送る水運の管理を任されていた。
・ところが、室町時代になってから細川頼之という傑物が統治者となり、その役割が頼之配下の香西氏に遷(うつ)された。
・その反感を抑えるためと細川氏が地盤固めも兼ねて石清尾八幡宮をあつく庇護した。

 昭和の初め頃まで毎年10月には四国で最も大きい大祭が行われていたという同神社。市内の町ごとに舟形のだんじりが存在し、それらを町の人たちが大勢でけん引しつながら神社に向かう、活気にあふれた祭りだったという。舟形のだんじりを引く風習は高松空襲で全ての舟が焼失されるまで続いていたという。


境内にも掲示された江戸時代の祭礼図

 


昭和初期の写真にも舟形のだんじりが残る(同神社所蔵)

 この舟型のだんじりは、高松藩主松平家の参勤交代などで使った御座船(ござぶね)にアイデンティティーを感じている高松の人々により江戸時代に作られた慣習ではないかと、筆者は勝手に想像していた。しかしこうして記録などから同神社の古代における役割を想像してみれば、多くの船が神社前に集まってくるその光景は水運の管理を担った同神社のありし日の姿を誰かが復元させたものではないかとも思われてくる。

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 このコラムでは知るとちょっと奥深い高松の歴史について紹介していきます。どんな「歴史小話」が飛び出すか、次回もお楽しみに。

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