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かもねのたかまつ歴史小話(7) 戦国時代の讃岐の栄枯盛衰 part.4

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かもねのたかまつ歴史小話(7) 戦国時代の讃岐の栄枯盛衰 part.4

【讃岐の戦乱~細川京兆家と阿波細川家の勢力争い】

1.讃岐の争乱の始まり「勝瑞事件」

 讃岐の戦乱の原因は主に阿波との抗争である。阿波の武将・三好長慶が天下統一に向けて動く最中、阿波で三好の主君筋に当たる阿波細川家当主・細川持隆が殺害された。いわゆる「勝瑞事件」である(参照)。この殺害者は長年、三好長慶の弟の三好実休であるとされていた。

(参照)勝瑞事件
阿波細川家の当主(阿波屋形、阿波・讃岐守護)で勝瑞城を居城としていた細川持隆は、同城で実権を握る三好実休と確執が深まり、死に追いやられた。 「三好記」によると、細川持隆は相撲見物の席で三好実休を殺そうとしたが、相談相手の奉行、四宮与吉兵衛が実休に密告したため計画が露見した。実休が3000の兵を集める一方、持隆の手勢は馬廻(うままわり)100余りに過ぎなかった。持隆は見性寺(高松市三谷町)で援軍を募るが呼応する勢力はなく、天文21年8月19日(西暦1552年9月7日)に持隆は自害、持隆の家臣だった星相右衛門と蓮池淸助(きよすけ)が死亡した。この結果、持隆の子である細川真之が阿波屋形となった。

 「参照」にもある通説では、先に細川持隆が三好実休を殺害しようと謀ったが露呈して逆に攻められて殺害されたような説明となっているが、これは「三好記」の説明であり、三好氏に都合の良いように記述された可能性も否めない。何より、京で天下に手を伸ばし始めていたこの頃の三好にとって、その主君の阿波細川家は、もはや目の上の瘤(こぶ)だった。

2. 「鬼十河」十河一存の台頭

 ところでこの事件の主君殺しの主犯者は十河一存(そごう・かずまさ)ではないかという説が近年、注目されている。十河一存は合戦中に左腕を負傷したにもかかわらず傷口に塩をすり込んで消毒し、藤の蔓を包帯代わりに傷口に巻き、再び戦場で猛然と槍を振るうなどの勇猛さから「鬼十河」の異名を持ち、戦国時代の讃岐の武将の代表として必ず名前が出る人物だ。三好元長の四男であり三好長慶の弟に当たる。

 十河氏は先に語った香川氏や香西氏らと比べて、この一存が登場するまで中世の讃岐ではほとんど存在感がない。十河氏は隣地の寒川(さんがわ)氏や京兆細川家守護代の安富氏らと争う中で、讃岐細川家(京兆家)の宿敵ともいえる阿波細川家との関係を縮め、阿波細川家家臣随一の実力者だった三好氏とのつながりを特に深めていったようである。

 三好長慶は、自身は近畿にいながら、淡路と東四国に信頼できる肉親である弟らを配しその地盤を固めることに努めた。阿波には実休、淡路の安宅氏の養子に冬康、そして末弟の一存を1530年ごろ、讃岐の十河氏の養子に出した。十河氏を三好に取り込み三好勢力に反発する讃岐の国人らを配下にしようと考えたのである。この事実を考えれば、「十河一存は讃岐武士の代表である」とする現代の評価は少し誤まっているのかもしれない。

3. 細川家と三好氏の勢力図

 当時、三好長慶は天下人への街道を進んでいた。阿波細川家の家宰として中央で活躍し、その実力で阿波細川家出自の細川晴元という人物を細川京兆家当主にまで押し上げた。しかし、強大になるにつれ、主君の細川家の存在は必要なものでなく、むしろ邪魔な存在となっていった。

 ここに来て細川家と三好氏の関係は微妙なものになっていく。1541年に細川京兆家当主の晴元が十河一存を討つように書状を讃岐国人の植田氏に出している。内容は「十河一存が勝手に十河城に乱入して占領したのでこれを讃岐守護代の安富氏とともに討て」というものである。

 晴元が本家当主となったことで細川本家にとって讃岐は土地を守る必要のある場所になった。細川晴元は、元は阿波細川家の系譜であり、しかも三好長慶の活躍によって細川京兆家(本家)当主になった人物なのだが、この書状からは讃岐の地を三好氏が侵略することは見逃せないという姿勢がうかがえる。さらには細川晴元の弟であり阿波細川当主の細川持隆も三好氏の讃岐侵攻に否定的で、西讃岐守護代の香川氏とつながりを持ったという。

この関係を簡単にいうと下記の通りとなる。

●細川京兆家当主 細川晴元
讃岐ほか細川領の安定を目指す。阿波細川出自で三好氏のバックアップにより京兆家当主となったという経緯を持つが、京兆家領の讃岐への侵攻をその三好氏が企てている。

●阿波細川家当主 細川持隆
細川晴元の弟という説がある。家宰の三好氏が讃岐侵攻を企図する中で西讃守護代の香川氏と接近する。

●三好長慶
細川家家臣としての立場を保持しつつ瀬戸内海沿岸での勢力拡大を目指す。
淡路の安宅氏と讃岐の十河氏へ弟らを養子に出す。

●讃岐国人
安富氏や香川氏など兼ねてより守護代・内衆だった国人らは京兆家当主となった晴元に従った。一方、十河氏は三好長慶の弟・一存を養子として迎えて三好一族となる。

 続いて時系列で見てみよう。

1553年
 勝瑞城事件が起きる。

1558年
 本州では三好長慶と細川晴元・足利義輝(室町幕府第13代将軍)との戦いが起きる。
(この時に三好実休が率いている軍勢は「阿波衆」と呼ばれており、この呼び名から、この時点では讃岐勢は三好氏の支配下にないと考えられる)

1559年
 三好実休が香川氏の天霧城を攻める。

1563年
 香川氏が天霧城から去る。

1570年頃
 三好支配下に讃岐諸将が組織化される


 勝瑞城事件以降の讃岐と三好との間で何があったのか、その資料は乏しい。永禄末期ごろに三好氏の支配下にされていたという一事をもって、十河一存が登場した頃合い(1550年あたり)から讃岐が三好の配下にあったと説明する事例がよく見られるが、三好勢が香川氏を天霧城から追い出した1563年までの10年間は少なくとも、讃岐が兵乱に巻き込まれていたのではないかと推察される。それは三好との戦いは勿論、三好派と反三好派に分かれての讃岐国人同士の争い、さらには中国地方の毛利氏、宇喜多氏、海賊衆に宗教争いをも巻き込んだもので、人も場所も入り乱れた混沌(こんとん)としたものだったのだろう。
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 このコラムでは知るとちょっと奥深い高松の歴史について紹介していきます。どんな「歴史小話」が飛び出すか、次回もお楽しみに。

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