NHKの大河ドラマ「どうする?家康」が好調らしい。
筆者は「本能寺の変」の下り、家康が正妻と長男を処断するに至った経緯から信長に恨みを持ち、隙を狙っていたところで明智光秀が変を興す展開に驚いた。歴史的考察から見ると首を傾げるところもあるが、創作物として見るのが賢明だろう。
今回の大河ドラマのように今までもさまざまな作品(テレビ、映画、小説や漫画)で本能寺の変が語られており、各脚本家や作家などが思い思いに考察を入れてストーリーを組み立てているのだが、どの作品を見ても重要なポイントが語られていない。それは「讃岐をはじめとする四国の国人たちが当時の政治や文化の中心である関西を治めていた」ということである。
本能寺の変にも実は四国が大きく関わっていて、当然讃岐も無関係ではない。今回は讃岐と戦国時代のつながりを見ていく。
【そもそも室町幕府の統制は讃岐の人たちによるものだった】
室町幕府は言うまでもなく足利尊氏により築かれたものだが、足利氏による政権がはっきりと確立されたのは3代目の足利義満の功績によるとされている。この義満を幼い時より教育し、支えてきた人物が細川頼之である。室町幕府はこの細川頼之によって土台が固められたと言っても過言ではなく、この頼之の本領が讃岐であったことから讃岐の国人たちは室町幕府の中でも重要なポジションに就いた。
頼之をはじめとする細川本家を京兆(けいちょう)家というが、その当主が幕府での政治を行うにあたって支えていた讃岐の国人たちを「内衆(うちしゅう)」という。
内衆たちは京に上り、幕府を軍事と政治の両面で支えた。室町期の応仁の乱をはじめとする戦乱でも細川勢の主力として安富、香川、香西、奈良氏などの名が見える。彼らは後に「細川四天王」と呼ばれた。
【商業都市・堺を治めた讃岐の国人】
当時の商売や文化の中心といえば、堺。数々の武将たちが群雄割拠した戦国時代だが、堺は商人により自治が行われる独立した貿易都市国家だったとされる。
細川政権下にあっては、その堺にも守護代や代官が置かれ、讃岐からも安富氏と香西氏などがその任を務めた。こういった国人の地元と堺の双方の港で貿易によるつながりがあったことは容易に想像がつくわけで、香西港や潟元港、三本松港なども堺との交易で賑わったことだろう。
一方の堺にとっても香西などとのつながりは治安に不安の残る瀬戸内海の航路の安全確保という利点があり、瀬戸内海から大陸への輸出入が盛んとなることで商人がますます集まり、大きくなっていった。
【讃岐の国人達の中央政権からの脱落】
このように、堺が経済都市国家として大きく発展した裏側に讃岐の国人たちの姿があった。ある意味、政治の中枢を担っている幕府から派遣されて地域の統治を行う姿は中間管理職的であり、現代の香川県民にもこの性格が色濃く見られるのは筆者だけではないと思う。
しかしその讃岐の国人たちも、1507年を境に中央での影響力を失ってしまう。香西氏や香川氏が主君である時の管領・京兆家当主の細川政元を殺害するという大事件を起こしてしまうのである。政元は子を作る気持ちがなく、跡目として公家の九条家から澄之を養子に迎えていたのだが、政元は廃嫡(はいちゃく)しようとした。
これに反発して、澄之の後見者であった讃岐国人たち内衆はあろうことか主君の政元を入浴中に殺害してしまう。そのまま政治を行おうとしたのだが跡目争いに加わっていた阿波細川家が軍勢を率いて上洛し、彼らは攻め滅ぼされた。
これ以降は讃岐の国人達が中央で重要なポジションに姿をあらわすことはなくなった。昔から「戦国時代はいつ始まったのか」という論議があるが、応仁の乱以降を戦国時代とする一般的な見解と共に、この細川政元を香西氏や香川氏らが殺害した事件をもって戦国時代が始まったという見方も多い。
面白いことに当の香川県民でこのことを知らない人も多く、戦国時代の到来に讃岐の人が関わっていたなどと筆者が説明すれば不思議そうな顔をされてしまう。
ここまで、中央で力を持ち、失う讃岐の国人の栄枯盛衰の姿を見てきた。次回は政権争いに敗れた讃岐の国人がその後どんな道を歩んだか見ていく。
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このコラムでは知るとちょっと奥深い高松の歴史について紹介していきます。どんな「歴史小話」が飛び出すか、次回もお楽しみに。
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