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かもねのたかまつ歴史小話(7) 戦国時代の讃岐の栄枯盛衰 part.2

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かもねのたかまつ歴史小話(7) 戦国時代の讃岐の栄枯盛衰 part.2
【室町政権中枢での香西氏の隆盛】

 前回では室町幕府の中枢を担っていた讃岐の国人達が主君の京兆家(管領)当主の細川政元を殺害したことを語った。
諸説あるが、この事件の主犯格は香西元長という人物であることは確実である。今でも香川県には「香西」の名字が多く見られる。今回は香西氏の歴史を見ていく。

 香西氏は高松市西部に位置する現在の香西町を中心として栄えた一族だ。詰め城跡が残る勝賀山城(高松市鬼無町)はつい先日、国の史跡に指定されたとのニュースが報じられたばかりである。

 畿内で細川家に随身して幕府中枢の仕事をする一方で、讃岐にある自領の統治も行わなければならないという都合から一族をいくつかに分けたようである。
讃岐に残った一族を「下香西」、京で活動をしている一族を「上香西」と呼びならわしたと香西成資が四国(南海道)の中世史について記した「南海通記」では説明する。

 京での香西氏の隆盛を知る一つの手がかりとして京都の相国寺(鹿苑院)の蔭涼軒主が書いた「陰涼軒主日禄」という日記の記述がある。その内容を現代語にすると次の通りである。

「(京都に)香西の一党はとにかく多くいる。伝わるところによると香西氏は藤原氏の家系で、一族が讃岐に7000人はいるという。これは他の侍の一族では及ばない人数である。京都にいる牟礼さんとか鴨井さんとか行吉さんなども香西氏の一族だ。今京都に集まっているだけで香西の一党は300人はいるんじゃないだろうか?」
つまり、「京は香西さんだらけである」と言っている。

 実際に上香西は丹波国や京のある山城国半国の守護代までも任じられていて、堺など各地の要衝地や荘園の代官も務めている。瀬戸内海から大坂湾内に至るまでの航路もその安全を香西氏によって確保されていたというから、恐らくは塩飽(しわく)諸島などの水軍が香西氏配下として活躍していたに違いない。


【綾一族の頭領として】
 香西氏は香川県の中讃地域で繁栄した綾一族の頭領とされる。
綾氏は讃岐の歴史を語るのに決して外すことのできない氏族だ。綾川や綾南などの地名にも氏族の名前は残っているが、そもそもが讃岐の国府や国分寺はこの綾氏の繁栄した地にあるし、保元の乱で讃岐に流された崇徳上皇の世話をしたのもこの一族だ。
平安時代には藤原北家が代々讃岐の守となる習わしがあったようだが、国府を治める綾氏は藤原氏と姻戚関係となり、藤原氏族となった。これを讃岐藤原氏(讃州藤家)という。 

 頼朝に協力した綾氏の中でも後に承久の乱で鎌倉幕府方に付いた香西が一族のイニシアチブを取り、やがては綾氏の頭領という立ち位置になっていったようだ。

 綾氏の始祖は景行天皇の皇子で古代の英雄として知られるヤマトタケルノミコトの子・讃留霊王(さるれお)とされる。
讃留霊王は「日本書紀」などでは「武殻王(たけかいおう)」とされ、南海の悪魚を坂出沖で退治した後に城山(坂出市)に移住、讃岐の国造(くにのみやつこ 国を治める長官)として治めたと伝承される。八色の姓の制度では天皇の後裔であることが認められて朝臣という上から2番目の姓を賜っている。

 香西氏は古代から連綿と続く皇族の血筋と都で強大な力を持つ藤原氏の血筋の双方を持つハイブリッドな存在として地元では認識されていた。

 細川頼之ら讃岐京兆家が室町幕府の中枢として京都に連れて行って重用していた香西氏とはそういう人たちだった訳である。

讃留霊王神社 古墳と神社が一体になっている珍しい神社である


 今回は京の都で政権争いに敗れた讃岐の国人の一大派閥・香西氏について見てきた。次回は内衆と敵対した阿波細川家側についた十河氏らについて語っていこうと思う。

※内容の一部を修正しました。12月4日12時8分追記

 

このコラムでは知るとちょっと奥深い高松の歴史について紹介していきます。
どんな「歴史小話」が飛び出すか、次回もお楽しみに。

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