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かもねのたかまつ歴史小話(7) 戦国時代の讃岐の栄枯盛衰 part.3

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かもねのたかまつ歴史小話(7) 戦国時代の讃岐の栄枯盛衰 part.2

【十河氏という血脈】

 前回、室町幕府中枢で活躍していた香西氏の話をした。簡単におさらいをすると、香西氏は古代において讃岐の国造となった讃留霊王(さるれお)を始祖とする綾一族の頭領であり、景行天皇の孫であり、古代の英雄として知られるヤマトタケルノミコトの息子である。

【神櫛王というもう一人の国造の系統】
 日本書紀によるともう一人ヤマトタケルミコトの身内が讃岐に登場する。神櫛(かんぐし)王である。ヤマトタケルノミコトと同じく景行天皇の息子で、同母弟に当たる。高松市牟礼や寒川郡などに居住したといわれる地がいくつか挙がっているが、そもそも2000年も前の伝承なので、その詳しい場所は分からない。

 末裔(まつえい)が繁栄したと思われる香川県東部(東讃)には四国最大の古墳である富田茶臼山古墳(さぬき市大川町富田中)がある。古くから畿内の影響を受けたと思われる古墳や埋蔵品などが多く発掘されており、大和政権と密接なつながりを持つ氏族がいたことは確かである。

 高松市牟礼町には「王墓」と呼ばれる神櫛王の墓がある。元々はこの辺りに墓があったとの伝承があり、王政復古に合わせて幕末に高松藩主が造ったものと伝えられている。

宮内庁が管理する「王墓」

 江戸時代末期に築かれたものながらも皇族の墓ということで、墓は宮内庁によって管理されている。香川県内で宮内庁の管理下にある墓は王墓と白峰寺(坂出市青海町)にある崇徳上皇陵の2つである。

 この神櫛王は悪魚を退治した伝承を持つ讃留霊王と違って、日本書記などでこれといった事績は見受けられないが父の景行天皇の命により讃岐に下されたとあり、兄のヤマトタケルノミコトにちなんで大内郡に白鳥神社を造営したとある。
 
 神櫛王から数えて3代目の須賣保禮命(すめほれのみこと)が応神天皇より国造に任じられた。ここに中讃の讃留霊王とは別のもう一つの讃岐国造のルーツが築かれた。

 西暦700年代に入って持統天皇の時代、大和朝廷の姓制度により「讃岐直」の姓を賜り、元正天皇からはさらに1つ上位の姓である「讃岐公」を賜ったという。

 さらに世代を経て讃岐公の永成という人物が平城から平安時代の頃に「讃岐朝臣」の姓を賜る。「朝臣」とは684年に新たに制定された八色の姓で、「宿祢」に次いで2番目の地位にある氏族に与えられた。讃岐では先に讃留霊王系譜の綾氏が朝臣を与えられており、これに対して神櫛王系譜の讃岐氏が朝廷へ激しいアプローチをした末に与えられたという。

 その頃の讃岐公永成以降の讃岐氏は中央で明法博士という役に代々就いている。これは身分を考慮せずに法的に政治や事件に対して意見を述べるという職務だった。一度に2人しか任命されないのだが、そのうち一人を讃岐氏が世襲しており、讃岐氏は当時の法学の権威として知られていた。この逸話を知っている人は現代の香川においてほぼいないだろうが、香川県民に理屈っぽい性格を持っている人が多いところが筆者には面白いと感じられた。この明法博士の役となり、讃岐朝臣となった永成こそが神櫛王の血脈の中興の祖といえるだろう。


【十河氏へと続く系譜】
 讃岐朝臣となるにあたり、もしくはなるまでの過程で神櫛王の血脈はいくつもの氏族に分かれた。「全讃史」(江戸時代後期、中山城山著)を参考に一部の氏族を書き出してみる。

・由良氏:神櫛王直系で「油良大人」と呼ばれる人がいて、山田郡の由良に住んでいたという。これによって由良氏が興り、由良の地名も生まれた。
・寒川氏:讃岐朝臣となった永成の次男の元直が寒川の地を治めて寒川氏を名乗った。
・高松氏:寒川氏元直の弟の元頼は高松の郷を治めて高松氏となった。
・三木氏:讃岐朝臣となった永成の孫が三木郡を治めて三木氏と名乗る。
・神内氏:初代三木氏の弟が神内に土地を貰って神内氏になった。

 これら一族の中でも平安の頃から名をはせたのが三谷氏である。高松氏を興した元頼の孫であり、その子孫の景時は源平の戦いでは平氏側に付き、「平家物語」などで義経のライバルとして描かれる平教経の影武者となったと「全讃史」では書かれている。景時から11代目の景冏が三谷の郷を受けて三谷三郎と名乗った。高松市三谷町には三谷氏にちなんで三郎池がある。

(余談だが三郎から4代目の景晴は弓矢の名手で禁内(天皇の住居)で夜な夜な現れていた怪鳥を射落としたので洛中で一躍時の人となった。三郎池そばの三谷八幡宮では怪鳥を射たとされる景時の矢が奉納されている)

 三谷三郎は3人兄弟だった。神内太郎、三谷三郎、十河十郎がそれである。神内氏が三木氏の弟となっているため、この記述に矛盾はあるが、追求するには何ら方法がないため、あくまで伝承と割り切って説明を続ける。

 三谷兄弟には次のような逸話が残る。時は南北朝時代。北朝勢力で第一の強者とされていた細川清氏が南朝に寝返ったが戦いに敗れて細川の領地である四国は阿波に逃げてきた。捲土(けんど)重来、四国で兵を集めて再び都に上らんとの野望から讃岐の白山(三木町)の麓で旗揚げをしたのである。そこにはせ参じたのがこの3兄弟である。清氏はこの時に面会した3兄弟の中でも十河十郎に優れた才覚を見出し、一族の長は十河とするようにと言ったという。以降神櫛王の氏族の長は十河となり、この時に三方に載せられて賜った扇を模した家紋となった。


十河氏の家紋 三方に載せられて賜った扇がモチーフ

 その後、細川清氏は五色台白峰麓の高屋(坂出市)付近で従兄弟に当たる細川頼之に敗れることになるが、この細川頼之が讃岐の守護となって室町幕府の基礎を築き、讃岐の国人たちが中枢で活躍するといった話は前に書いた通りである。しかし、室町中期辺りで活躍する讃岐の国人らの中に十河氏や三谷氏などの名は見当たらない。

 十河氏の名が精彩を放ち始めるのは室町の末期、つまり戦国時代に入ってから。そこには中央の細川一族の争いと下克上によって天下人となった三好氏が大きく関わってくる。

 次回は讃岐国における戦国時代の対立や戦いの模様を見ていく。

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 このコラムでは知るとちょっと奥深い高松の歴史について紹介していきます。どんな「歴史小話」が飛び出すか、次回もお楽しみに。

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