高松を元気にする100人 VOL.6 香川住みます芸人 梶剛さん
香川をさぬきうどんのように太く長く愛される場所にしたい――そんな思いから帰郷し、地元香川で活躍する芸人がいる。地域に密着した芸能活動で地域貢献を目指し47都道府県にお笑い芸人を移住させる吉本興業のプロジェクト「よしもと住みます芸人」。そのうちの一人で香川県の魅力を高松から発信する梶剛(かじつよし)さんだ。
梶さんは香川県三豊市の高校を卒業後、大阪の大学進学と同時にNSC大阪校に入り、芸人の道へ。元相方のムーディ勝山さんとコンビを組み東京で活動した後、香川に戻って「2代目香川県住みます芸人」に就任した。
移住から5年がたった2017(平成29)年に初めて「香川のええもん、うまいもん」を集結した「かじ祭り」をプロデュース。同イベントは回を重ねるごとに県内外からの参加者が増え、2019年には1万5000人を動員する大規模な祭りに成長した。
2020年9月に高松常磐町商店街の一角に開いた小さなコミュニティースペース「かじ笑店」では、地元企業や商店街などの協力を得ながら無料のお笑いライブや地域イベントを開き好評を得ている。 いまだコロナ禍が続く本年はテレビの30分枠を自ら買い取ってバラエティー番組「かじモリス~地方盛り上げバラエティ!」を制作した。
ローカルエンターテインメントの可能性を追求し、「現在と100年後の香川県を盛り上げたい」と突き進んでいく梶さんに、香川県住みます芸人としての軌跡、そして新たなチャレンジについて聞いた。
梶剛さん
【1】始まりは小学校の文集--芸人を志して香川から大阪、そして東京へ
-梶さんは生まれも育ちも生粋の香川県人ですが、ここでどんな学生時代を過ごされていたのでしょうか。テレビは昔から好きでしたか?
好きでした。でも、芸人がよく昔話でするような「学園祭で活躍した」ようなタイプではありませんでした。かと言って教室の隅っこで一人ぼんやりしてるわけでもなく、ワイワイにぎやかなグループにはいたけど、特にその中で目立つようなやつではありませんでした。それなのに小学校の文集ではなぜか「テレビに出たい」と書いていて。多分そのときはお笑いは全然関係なくて、ワイドショーとかの香川中継の後ろにちょっと映り込むとか、本当にそのぐらいで良かったんだと思います。
-お笑いに進むきっかけはどのあたりから始まっているのですか?
それが、高校で特にやりたいこともないまま進路を決めなきゃいけなくなったときに、突然、小学校の文集で「テレビに出たい」と書いたことを思い出して、「そんなこと書いたな。テレビに出るんやったら、自分に何ができるだろう」と考えているうちに吉本の養成所「NSC」の存在を知りました。 しかも、たまたま中学の同級生がそこに行こうとしていることが分かって、じゃあ、そいつとコンビ組んでいっしょに行こうかと。1人だったら行ってなかったかもしれませんね。
-偶然の選択だったんですね。実家の家族の反応はいかがでしたか?
ここまで「テレビに出たかった」「お笑い芸人になりたいと思った」と話してきましたが、進路としては高校の卒業とともに大阪の大学に進学しています。大学に行く4年間の最初の1年間だけ吉本の養成所に行かせてほしいと頼んだので、親としては思い出作りの一つぐらいで、まさか芸人になるためとは思っていなかったのか、そのときはそこまで反対もされませんでした。
-養成所時代の同期で、現在活躍中の芸人さんはどんな方がいらっしゃいますか。
今テレビの第一線で活躍している人がかなり残っていますね。僕らはNSCで「花の22期」と呼ばれていたぐらい、売れている芸人が多い代なんです。養成所だけで言うとお笑いコンビ「キングコング」が在学中からもう売れていました。それから「南海キャンディーズ」の山里亮太や「ダイアン」、「とろサーモン」、「ネゴシックス」…養成所ではないけど「NON STYLE」も同期です。
-その後、デビューしてコンビで東京に進出した後、「住みます芸人」のオファーが来た際に一度断ったと聞きましたが…。
吉本が「住みます芸人」のプロジェクトを始めたのが2011(平成23)年4月なので、ちょうどその1年ぐらい前の2010(平成22)年のことですね。その頃の僕はコンビを解散してピン芸人になっていたのですが、まだ東京で少しでも仕事を増やしたい、頑張りたいという思いがあったんです。何より、「お笑い」の世界と「芸人仲間」が好きだったんですよ。だから、その人たちの近くに一緒にいて、その人たちと仕事がしたい。離れたくないと強く思っていました。
それにこのような企画も吉本に前例がなく、成功事例をあまり見ていなかったので、急に「地方に行ってくれ」と言われても不安しかなく、「これは泥舟やな」と、それに乗っかる気にはなれませんでした。
「住みます芸人」の話を持ちかけられた同じ場にネゴシックス、とろサーモン、ソラシドがいたのですが、全員が最終的には断っていましたね。
【2】家族のための帰郷から「住みます芸人」へ −人生のターニングポイントは交通事故
-2度目のオファーで「住みます芸人」を引き受けたときは、どんな心境の変化があったのでしょう か。
最初の話から1年半後に、自営業を営む父親が大病を患ったと実家から連絡がありました。親からはずっと実家を継いでほしいと言われ続けていたのが、妹だけは一切口出しせずにいてくれていたんです。その妹が初めて電話口で「香川に帰ってきて家を見てくれないか」と。その言葉を聞いた途端、何の迷いもなく「もう芸人辞めて香川に帰ろう」と思いました。それで会社に「もう辞めて香川に帰ります」と言ったら「なら地元で芸人やったら?」と改めて「住みます芸人」を勧められて…。僕が一番に優先するのは「父親の近くにいる」ということなので、それでいいなら、と引き受けることにしました。 そんなわけで、自分の中ではここで「芸人を一回辞めた」と思っています。
-香川県に戻って最初の頃はどんな活動をしていたのですか。
ありがたいことに、僕が帰ってきた2012(平成24)年1月頃はちょうどテレビ局の方でも「男性のしゃべれる人」を探しているタイミングだったので、すぐに仕事が入りました。ただ、そうなると「芸人」というよりは、「アナウンサー」や「コメンテーター」の立ち位置なんですよね。「うちの番組では別に面白いことはしなくていい」「番組をにぎやかにしてくれたら、それでいいから」なんて言われたこともあります。
テレビなんかでも、最初は初めから終わりまで全部のせりふが書かれた台本を渡されていました。「こんにちは、梶剛です」から何から何まで、一言一句書かれていて、最初はもう全部覚えてしゃべりましたね。
地方では芸人を扱った番組を作るといったことをしてきていないから、局の人もまだアナウンサーを使っている感覚だったんでしょうね。
-それだと、梶さん本来の持ち味が生かされなかったのでは。
そうですね。でもそれはテレビ局だけじゃなくて、そのほかのメディア関係は全部一緒の見方をしていたと思います。要は「東京で売れなかったやつが地方に送られてきた」みたいな。地域の人からの目も同様で、「島流しされたやつが来ただけでしょ」という感覚。どの県の「住みます芸人」も当初はそんな感じの扱いだったんじゃないでしょうか。
だけど当時の僕が香川に戻った理由は父親の横にいるためで、芸人がしたくて帰ってきたわけじゃないから、仕事としては何でも良かったんですよ。「吉本に恩を返さなあかん」とは思っていて、会社がやって欲しいという仕事は文句を言わずに何でもやるつもりでした。
-その状態から、何をきっかけに変わり始めたのでしょう。
まずは、とりあえず仕事をこなしていく中でも「こんな風に変えた方がええのにな」「こうやったら面白くなるのに」という気持ちが湧いてきたことです。「こうしたらテレビやラジオをもっと面白くできるのに」「イベントや祭りも、こんな企画があれば面白いのに」…そんな思いがどんどん膨らんできました。ただ、「まだ提案するには時期尚早じゃないか」「僕自身が結果を出して説得力を持ってから言おう」と思って黙っていたんですね。
そんな中、2015(平成27)年3月29日の夜に交通事故に遭いました。赤信号で止まっていた僕の車に、飲酒運転で警察から逃げてきた車が突っ込んできたんです。
その事故で僕の背骨は上から下まで全部折れて、本当によく生きていたなという時期が2カ月ぐらいありました。そこから僕は「死」をすごく身近に感じるようになったんです。もしあのまま死んでいたら、例えば何か「こうしたらいいのにな」と思っていたことも全部できなかったんだなと。それだったら、別にまだ結果が出ていなくても、何でも思ったときにすぐやらなきゃいけないと思うようになりました。
そこからいろいろと自分で企画したり、積極的に自分を出したりするようになっていって、2017 (平成29)年に第1回「かじ祭り」を始めました。
【3】香川をまた帰りたいと思ってもらえる場所に−「かじ祭り」・「かじモリス」
-「かじ祭り」はコロナ禍になる前までに全部で3回、どれも盛況で開催ごとに規模を広げていったそうですね。
「かじ祭り」は、香川県で出店しているお店やモノづくりをしている人たち、「香川のええもんうま いもん」を集めたブースが取り囲んだステージの上で、芸人たちが朝から晩までネタを披露する祭りです。
2017(平成29)年に始めたのですが、芸人を呼ぶ交通費やギャラ、会場を借りるお金なども、全部僕の自腹で、補助金は一切出ていません。ありがたいことに2回目、3回目からは協賛してくれる企業さんや運営のサポートスタッフなど、力を貸して応援してくれる人たちも出てくれましたが、 企画から運営、設営、保健所、警察、消防などの許可取りまで全部基本は一人でやってきました。
一番のこだわりは「イベント」じゃなくて「お祭り」だということ。祭りって準備に時間がかかる割には収益も大きくないし、やる側にとってあまりメリットはないんですよ。それをどうしてやるのかというと、地域を盛り上げたいから。そのためには、さっきも言ったように「自分の思いは自分の行動で示さなあかん」「変えたいと思ったことは結果が出ていなくても、すぐにやらなあかん」と思っているからです。
あと僕が祭り好きなこともあります。今、地方から「お祭り」がどんどんなくなっている。僕らが昔、じいちゃん・ばあちゃんに毎年連れて行ってもらっていたような、ああいう祭りがどんどん減ってきている。人が足りない、お金がないとか、いろんな理由で守りきれなかった文化なんですね。
だったら新しい祭りを作って後世に残してあげようと思って始めたのが「かじ祭り」です。 祭りだから、僕は入場料も駐車場代も絶対に取りません。ここだけの話、入場料で100円でも頂いたら結構な額を運営費に回せるんですが、そしたら一人じゃ見に来られない子どもたちが出てくるかもしれないと思うと嫌で…。お金を取る花火大会なんてないように、誰でも参加できる「地域のお祭り」を残したいと考えています。
-「かじ祭り」は開催時期にもこだわりがあるとか。
そう、必ず3月末の最終日曜日に開くようにしています。なぜかというと、大学生や社会人で県外に行っている人たちの帰省期間の終わりと、県内の学校を卒業してこれから出ていく人たちの最後の思い出作りのタイミングに当たるからです。そういう若い子たちが「かじ祭り」で楽しい思い出を作って出ていけたら、きっとまた香川に帰ってきてくれると思いまして…。
今は地方人口の減少があちこちで課題として上がっているじゃないですか。移住促進などの施策も確かに大事だけど、「その土地から人が離れない」とか「その土地で生まれた人が帰ってくる」というところにも力を入れないといけないと思います。移住された人たちには真に帰る故郷が別にあるわけですから、出身者が町を守っていくという気持ちを持てば、もう人も減らないのではないでしょうか。
だからもっと地元の人たちを大事にしなければならない。この「かじ祭り」も香川県の人たちに 「うちではこんなん見れるねん」「香川って楽しい、ここで暮らせてよかった」と思ってもらいたいから続けています。
− 昨年と一昨年の開催は残念ながら中止となってしまいましたが、最近はだいぶイベント規制も緩んできました。来年の開催はいかがですか。
もちろん来年もやるつもりでいます。ただ、昨年も一昨年もギリギリまで開催の準備をしながら状況を見て中止にしたので、できるか否かはそのときの状況次第ですね。
-楽しみにしています。5月にテレビ番組「かじモリス」が始まりましたね。
はい。「かじモリス」は番組枠を自分たちの自腹で買って制作した番組なので、まさに「かじ祭り」 のテレビバージョンです。バンド「四星球(スーシンチュウ)」のドラムで香川在住のモリスと僕がメインパーソナリティーを務めている瀬戸内海放送の番組で、香川の魅力を届けるため放送しています。
「四星球」モリスさん(右)と
今って、テレビやラジオもコロナでスポンサーが少なくなって、資金がないから番組が作れないとか、一部諦めモードなところがあるんです。既存の番組でも「これぐらいでいいだろう、地方だし」という雰囲気があって、それが嫌やなと。
だから「新しい番組を自分の力でやってみます、自分でお金も集めます」と始めたんです。そのうえで成功させたなら、「ほら、こんなことできましたよ。みんなで一緒にやりましょうよ」と説得力を持って言えますから。
もちろん協力してくれたクラウドファンディングのサポーターの皆さんや応援してくれた企業の方々の熱意のたまものなんですが、口で言うより、こんな風に成功事例を実際に示すのがやっぱり一番です。 僕がやっていることに「芸人が調子に乗って何してるの」と思う人がいるのも分かりますが、それ以上に自分がやらなきゃいけないことは絶対にあるはずと思っていて。これからの若い子たちのために、「自分が地方のエンタメを変えなあかん」と、勝手な責任感を持っています(笑)
-そんな梶さんの若者たちへの思いは、一昨年秋の『KAJI讃岐芸術祭』でも通じるものがあ りますね。
第1回「KAJI讃岐芸術祭」の模様
「KAJI讃岐芸術祭」の初回は2019年10月、丸亀港フェリー乗り場の待合所で開きました。このイベントも自分でお金を出して、県内の学生や子どもたちを中心に、香川県で芸術作品を作っている若い方々の作品を展示しようと思ったのが始まりです。というのも、前々から瀬戸内国際芸術祭は香川で開催される芸術祭の割に香川の人の作品が少ないと感じていまして。
「香川のためにやるんなら、香川の若い才能を育てないかん。それだったら、俺が芸術祭作ったる!」ということから始めたので、他のイベントと思いや目的は全部一緒です。
県内の学校にも声を掛けましたが、タイミングが合わなくて出せなかったところもあります。そんな中、個人で出展してくれた子もたくさんいて、1回目は108点もの作品が集まりました。1回目に作品を出して、2020年に「かじ笑店」でやった2回目にも出展してくれた子もいて「コロナで出展のチャンスも減っていたし、この機会があったから新しい作品が描けた」と言ってくれたんです。見に来てくれた、その子のご両親もすごく喜んでくれたので、本当にやって良かったと思いましたね。
継続しないと意味がないので、若手アーティストを応援するためにも「KAJI讃岐芸術祭」も今後また、何かの機会でやっていこうと思っています。
【4】今後の意気込み・高松経済新聞読者へのメッセージ
-そのほか、今後若い人たちを応援するためにやってみたいことや新たな構想はありますか?
まだ企画の段階ですが、「大人の運動会」と「うどん王決定戦」。これを「高校生クイズ」みたいな大がかりなイベントとして年1回やりたいです。それから、今は高松だけにある「かじ笑店」のようなコミュニティースペースを、地域ごとに作りたいと思っています。
2021年7月に行った「めだか笑店」の様子
後は、この仕事をやり始めてから今になって思うのが、「結果が出る前から応援してくれる地域」 はありがたいということ。夢を持っている若い人たちに地元が支援をして、「地域のみんなが自分の夢を応援してくれた」という思い出が残ったら、とてもすてきなことですよね。
例えば歌手になりたい子がいたら、その子たちに県が無料で機器の揃った練習スペースを貸し出してくれる。歌、ダンス、演劇、お笑いなどにもそんな制度があって、香川にいる間の成長を後押ししてあげていたら、その子たちは売れた後に絶対香川に戻ってきてくれるはずです。それで香川のエンタメの仕事も喜んでやると言ってくれるようになる。
今は売れた後になって、大使や地方絡みの仕事をお願いしてしまっているんですよ。でも売れてから寄ってくる人よりも、売れる前から心底活動を応援してくれていた人に恩返しをしたいと思うのが人情というもの。 地方のエンタメをもっともっと面白くするためにも、地方の若い子たちを応援する環境をたくさん作っておきたいです。生きている間は香川に若い子たちが自然に戻ってきたくなるための種まきをしていきたいですね。
-ありがとうございます。最後に高松経済新聞の読者に向けて言葉をいただけますか?
100年後に多分僕はもう死んでますけど、そのときの香川に「香川って面白いな」「この街を離れたくないな」という人が一人でも増えていたら本望です。僕らの代からその思いをつないでいけたら、それが本当にできるんだったら、全力で挑戦する価値があると思っています。
だからこの記事を読んでくれたことで、自分のするべきことは半分終わったぐらいの気持ちです。僕の火種からちょっとでも読者の皆さんに火がついて、さらに「前にこんなん言うてるやつおったな。おもろいやんけ。自分も一つやったろか」と、それぞれができることを見つけて取り組んでもらえたらうれしいですね。
活動する中で「それって芸人がやる仕事なの?」と言われてしまうこともあります。でも「かじ祭 り」や「かじ笑店」、そのほかいろんな活動に参加してくれたお客さんたちは、みんな笑顔になって くれている。「ネタをやって爆笑させること」と「企画でお客さんが笑顔になること」、どっちも「同じ笑い」だともう自分の中で振り切りました。芸人の仕事は「笑顔」を増やすこと。だから、今は「全部が僕の大切な仕事や」と胸を張って言えるんです。
【編集後記】
香川のイベントやテレビ番組にも数多く出演し、香川でその名前を見ない日はないのではないかと思うくらい日々さまざまな活動をする梶さん。今回、その活動の軌跡、活動の根底にあるものをお聞きすることができました。
高松であちこちに取材へ行くごとに「高松って面白いな」「香川でもっといろいろなことができるはず」という思いが湧いてきます。「地方の面白さ」「地方だからこそできること」を、ニュースを通してこれからも発信していきたいと思います。
高松経済新聞では今後もさまざまな活動で香川・高松を元気にする方々を紹介していきます。
次回もお楽しみに!