
皆さん、こんにちは。香川の歴史ライター「かもね」です。
日本史最大のミステリーといえば、先日大河ドラマ「豊臣兄弟!」でも描かれた、1582(天正10)年6月2日に起きた「本能寺の変」ですよね。明智光秀がなぜ主君・織田信長を襲ったのか。一般的には「信長にいじめられた怨恨(えんこん)説」や「光秀の天下取りの野望説」などが有名ですが、歴史ファンの間で今最も熱い視線を集めているのが、四国を巡る政争が原因だったとする「四国説」です。
四国説を考える上で外せないのが、土佐を治めていた大名・長宗我部元親です。信長と元親は意外と深い関係があったといわれています。ここで信長と元親の関係性について学校の教科書やテレビの歴史番組などでも紹介される「通説」を振り返ってみましょう。
このような話です。大河ドラマで描かれそうな場面ですよね。
しかし当時の戦国時代のリアルなパワーバランスを考えると、この通説には大きな矛盾と謎が隠されています。
いくら信長が天下を統一しかけていたとはいえ、他人の土地を「勝手に切り取って自分のものにしていい」なんて言おうものなら、周囲の武士たちから「お前にそんな権限があるわけないだろう」と猛反発を受けるはずです。
驚くべきことに現代の歴史研究では、この「四国切り取り放題の朱印状」について、織田信長側が発給した本物の書状(一次史料)は今日まで一通も見つかっておらず、その真偽は極めて不確かとされているのです。
つまり、実在したかどうかも怪しい「謎のはったり」が、なぜか当時の四国では通用し、元親はそれを武器に四国を突き進んでいったことになります。一体なぜそんな奇妙なことが可能だったのでしょうか?
この謎を解く鍵は室町時代から四国に君臨していた絶対王者「細川家」にあります。実は、四国(土佐・讃岐・阿波)はもともと全て細川家の領土でした。中でも、私たちになじみ深い讃岐(香川県)と、元親のホームである土佐は、室町幕府の総理大臣格である「細川本家(京兆家)」の直轄領。そして隣の阿波(徳島県)は、分家である「阿波細川家」の領地だったのです。つまり、四国の武士たちにとって、細川家は「絶対的な主君」でした。
ところが戦国時代になり、この古い秩序に実力で挑んだのが、細川家の家臣から台頭した「三好氏」です。三好一族は、機能不全に陥っていた室町幕府や細川家を見限り、自分たちの圧倒的な実力によって畿内と四国をまとめ上げ、乱世に平和をもたらそうとした「時代の最先端を行く実力者集団」でした。彼らには彼らなりの大いなる新時代の正義があったのです。しかし、その過程で主君である阿波細川家の先代当主を殺害するなど、強硬な手段を選んだのも事実。そのため、室町以来の古い伝統や血統を重んじる四国の保守的な武士たちから見れば、三好氏は秩序をめちゃくちゃにした「不届きな侵略者」のようにも映っていました。
この四国の覇権を握る偉大な実力者・三好氏に対し、土佐の長宗我部元親が動き出します。もちろん、元親の本音は「四国を俺の領土にしてやる」というぎらついた野心そのものです。ただ、むき出しの領土欲だけでは周りの国人たちは警戒して味方してくれません。そこで元親は、古い秩序を重んじる四国の人々がこぞって協力したくなるような、最高に都合の良い「大義名分(建前)」として、この細川家のブランドを徹底的に利用することにしたのです。
この元親の策略が、唐突に見えた信長への接近、そして実態すら怪しい「切り取り放題の朱印状」という大はったりへと一本の線でつながっていくことになります。
(第2回へ続く)
このコラムでは知るとちょっと奥深い高松の歴史について紹介していきます。
どんな「歴史小話」が飛び出すか、次回もお楽しみに。
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